昭和46年07月19日 朝の御理解
御理解 第8節
「子供の中に屑の子があれば、それが可愛いのが親の心じゃ。無信心者程神は可愛い。信心しておかげを受けてくれよ。」
信心が無い人を無信心と申しますけれど、信心を頂いておりましても、信心させて頂いとりますけれども、無信心でと申しますね。謙遜して申します訳ですけれども、事実矢張り無信心に等しい信心しておる者が実は多いのではなかろうかと思います。どれ程信心頂いとるから変わり映えのある生き方をしておるかという風に煎じ詰めて参りますと私共やはり無信心者としての自覚、いわゆる屑の子の自覚と、だからそういう無信心者でございますけれども、誠に神様の目からご覧になれば屑の子に違いない私ね。
けれども、あなたのおかげを頂かねば立ち行かん私でございますと。けれども無信心者ではございますけれども、あなたのおかげをいただかなければ立ち行かん私ですと言う事。私はそこまで分からせて頂くところから、おかげが受けられる道がついて来ると思いますね。もう何にも出来ない。もうあなたのおかげを頂かねばです出来る事ではないという自覚です。だからこれが本当の屑の子の自覚です。ここを一寸動かして頂こうでもです、あなたのおかげを頂かねば出来る事じゃない私達なのです。
私はここんところを今日はですね、改めてこの屑の子と言う事に対する新しい一つの解釈ですけれども、そこまで神様に一心にならせて貰うというか、そこから又だからすがらなければおられないものが生まれて来る。だからそういう信心を頂く事が先ず先決だということが分りますね。「障子一重がままならぬ人の身」ですから、あなたのおかげを頂かなければ立ち行く事でない私しと言う自覚。
私はこれが本当の意味に於いての屑の子の自覚だと思うのですけどね。何にも出来んのです。もう親の御厄介にならなければ立ち行かんのだという頂き方。手を挙げるのも、足を挙げるのもあなたからこうやって、おかげを頂かせて貰わなければ手も挙がらんのだ、足も挙がらんのだと云うのですから、これは体だけの事じゃない。心も同じ事。右に思う、左に感じようと思うてもなかなか出来ません。
はぁここは一番元気を出そうと思うても元気が出ない。ここは一番喜ばせて貰おうと思うても喜ぶどころか反対の心が出て来る。いわゆる体もあなたのおかげ頂かねば手を挙げることも足を挙げる事も出来ませんが、心とてもやはり同じ事。いわゆる、心の不具者であります。としての自覚ね、そうでしょうが。あぁここは一つ安心したいと思うても、不安が下から下から突き上げて来る。
ああここは腹かくどころか御理解頂いておると御礼を申し上げんならん事と思うても、やはり腹立ちが心の底から起きて来る。無性に起きて来る。さ自分で自分の心一つが侭にならぬ私であるという、心の完全なる不具者であるという自覚。そこであなたのおかげを頂かなければ思うことすらが出来ない私であり、形の上に於いては動くことさえ出来ない私であるという自覚。
私はやっぱりそこに至りませんとですね。どうも我が出ていけません。その位のことは自分で出来るという思いが起こって参ります。いやおれが頑張ったからこれだけ出来たというた様なことになって来るのですね。あなたのおかげを頂かなければ出来る事ではないという、いわゆる本当なことが分かる訳です。だから分かっただけではいけません。そこから信心しておかげを受けてそういう心になって信心しておかげを受けてくれよと言う事になります。
本当にですね私しは、今日今第八節を頂きましてから、この内容からです、確かこの内容に昨夜の月次祭の時のお話が丁度こう当てはまる様な感じがしきりにするのです。ですから、もう一遍昨夜のお話を皆さんに聞いて、内容を聞いて頂こうと思うたんです。そして、お話をし終って少し舌足らずだったなあと思うた所なんかもそれを添えて今日聞いて頂こうと思ってね。
昨日の月次祭のご理解を一生懸命思い出そうとするけども、全然思い出せんなり。そしてね、そこの控えの向こうの手洗いがありましょう。あの西宮橋と云う、あの彫物のしたあの手洗い、あれがこう筧がありますが、奇麗な青い竹をすきっと切ってね、あのその筧のところを頂く。水が一滴も入ってない、それがこう少しひねらせて頂かねば、あそこは下が水道になってますからね。
下のコックをひねらなければ水が出らない。そのところを頂いた。ああもう本当に昨夜の事に自分が話したことだから、その侭覚えとらにゃならんものが、すっきりどういうことを話したか、内容すらを只感じの上では昨夜の御理解はそういう御理解だったなあと感ずる。一生懸命思い出そうとするが思い出せない。皆さん自分で思い出しよるごとあるばってんですね。あれは思い出させて頂きよるとですよ。
昨夜の話は私はすっきり忘れて仕舞うとるとですから。そしてひねっておけと、神様へ心をしっかりひねっておけと、そこから限りないお恵の水が出て来る様にお話は限りなく出来るぞと教えて下さっておると感じた。成程私のお話と云うのは、もう神様のお恵の水です。自分でこう話そう、ああ話そうと思ったって話せる段じゃない。これはもう何時の場合だってそうですね。
だからその問題はそのコックをひねっておくと言う事。心を神様にぐっとこう向けておくと言う事。こちらが信心になっておくと言う事。その信心になっておくと言う言が限りないお恵の水が筧をつとうてて流れて来る様にです、丁度私がいうならば筧の様なものであって、こうやってお話は神様が下さっておるお恵の水なのだ。私はそれを頂いて改めてそう思いました。今日、自分の知恵やら力で話そうなんて出来る時代もありました。けれどもね、そういう話では人は助からん。
只話が上手であるだけで、助からないと云うことが分かりますね。だから今日とても何と話してよいやら分からん。私の頭の中にはないけれども、今お話して参りました事も、だからこうやって私がひねっておるから、こうやってお話が出来ておるだけに過ぎない。その出来てきたお話を聞かせて頂いてはっとする程感じておることは、私達が神様のおかげを頂かなければ立ち行かん私であるんだ。五体の上、肉体の上に於きましても動こうと思っても実は神様のおかげを頂かなければ頂けないのだ。
ましてや、心の上のことはその通り。心に右に思い、左に思うと思うてもなかなか自分の思う様に、自分の心が自由にならぬ。してみると自分は心の不具者だなあと分からなければならないぬ。その時初めて吾れ無力であると言う事と同時にですね、本当に私こそ神様の御厄介者であると言う事になってくる。あなたのおかげを頂かなければ心一つがどうにもならない。
手を挙げよう、足を下げようと思うても、神様のおかげを頂かなければ、さあ今日は昨夜の話をそのまま話そうかと思うてもちゃんと頭の中には全然ない。忘れて仕舞うておる。思い出すことすらが神様のおかげを頂けなければ思い出しは出来ないんだと悟らせて頂く時に、初めてそこに完全な屑の子としての自覚が出来たと言う事ではないでしょうか。だから神が可愛いという働きがそこから生まれて来る。
屑の子程可愛いとこういう。まあだこれしこは自分で出来ますという人の上にはです、んならおまえがまあいっちょやってみればよかたいと言われる様な事になるのじゃないでしょうか。そこんところを分からせてもらう。そこからならそれだけじゃいかん。信心しておかげを受けてくれよと言う事になって来る。私今日は御神前に額がせてすぐ頂いた事はこういう光という字であった。こういう感じに光という字を頂いて、そしてね、こういう筆を加えてね。まっすぐ棒を立ててみる。
したらこれはどういうことになりますか。光の下の方へ棒を立てたら米という字になりましょうが。お互いがままになりたいと云うおかげを頂く。先ずお米がいる。まず燃料が要る。火が要る水が要る。そこでほっこらとしてご飯が出来る。そして初めてままになるのであります。私はこの事を頂いてから思わせて頂いたんですけれどね。ははぁ徳を受けると言う事は、例えて申しますと前の七節のところですね。
「天地日月の心になること肝要なり」とありますね。勿論天地日月の心になることが肝要である。それが天地日月の、いうならば具足したとでも申しましょうかね。あれも足らい、これも足ろうたところの、お徳というもの。徳にもやっぱかたよった徳というのがありますね。病気だけはじゃんじゃん治せるという徳。お金のことなら持って来いというた徳。やはり金の徳、物の徳、人の徳、神の徳というた様にね。
夜の徳、衣料例えば五徳なら五徳と言うた様な徳でも、それもやはり専門的に頂いている方がありますね。食べるとだけには絶対不自由せんという人がありますね。もう私は着物だけには恵まれとるという人がありましょうが。やはりそれは徳。私は金光様の御信心をさせて頂くと言う事はね、天地日月の心と言う事はもう足ろうた事だと思うのです。天地の姿なのです 天地日月の心。だから天地日月の心になる言が肝要です。
だからいわば天地日月の様に足ろうたおかげがです、もう全てのことが円満に具足してくる全ての事がおかげと頂く。健康の徳、お金の徳、物の徳、人の徳、神の徳と云う様にです。そういう様に私は足ろうたおかげを受けて行かねばいけない。為にはですやはり天地日月の心肝要と言われるから、お互いがそこに焦点を置いて日々信心の稽古をさせて頂いておる訳でありますね。
天の心とはもう与えて与えて止まないもの、限りなく美しうなろうぞと思わせて頂く修行。地の心とはもうそれこそ、無条件に黙って受けて受けて受け抜くという心。大地の心。ここは辛抱が出来んというところでも、じっと大地の心をもってするとそれが有難い事になって来る。受けて受けて受け抜いて行くという心。日月の心。説明をすれば大変いろんな説明になるでしょうが、先ず日月程実意丁寧なものはなかろう。
様々なお互い人間の生活していく上に様々な問題がありますけれども、日々その問題に取り組ませて頂くでも、何日か前のお話じゃないですけども、初めの間はえらい親切にしよるかと思うと仕舞え方にはスポッと抜けて仕舞う様な人。そう言う事ではない。最後の最後まで行き届いた御用をさせて貰うと言う様な生き方。日月の心。そういう修行が肝要だと仰るのは、いわゆる円満具足というかね、あれも足ろいこれも足ろうた。
人間の幸、人間の幸福にどうでも必要なものを全て見つけて行こうと言う様なおかげを頂く為には天地日月の心になること肝要であると、例えばお互いが修行させて頂いておる。信心しておかげ受けてくれよとはそう言う事だと思う。一生懸命神様に打ち向かわせて頂くと、かえって困った事が起こってくるような事実が確かにそう言う事もあるですね。例えば、お取り払いが始まると申しましょうか。
まあ大抵有難いと言いよるけん、神様お試しとでも申しましょうか。そういうところをあれもこれも神様の御都合御働きとしてです、それこそ、合掌で受けて行く程しの信心がだんだん身に付いて来た。それは心に光が頂けて来たからです。それが分かって来たのです。暗い間は分かりません。心に光が出来て来たからそれが分かって来た。分かって来たからその様な事柄でも、いわゆる世の中で私共が言う難儀な問題であっても、それを元気な心で合掌して受けて行くと言う事になる。
光を受けて行くね。だから私合楽の場合、皆さんそういう意味に於て光を受けておられると思うのです。お徳を受けて行きよんなさる。光は力であり徳であると思います。だから徳を受けたからというて、光を受けたからというてすぐそのまま、ままになるのじゃないと言う事です。今日、私はこの事で教えて頂いた様な気がするんです。光を受けてもね、それからいっちょ辛抱が必要だと言う事です。ね、
光を頂いてもだから。皆さんがね、本当に光を受けて行きよるなあと自分で思わせて頂く位ですね、信心が出来て行かにゃいかん。ならそれが出来たから今もうおかげになると言う事では決してありません。だからおかげはもう神様にお任せせにゃいかん。何時下さるのか、神様がね、それはもう神様の分域なのです。おかげというのは人間の分域ではないもの。こっちは光を段々大きくしてさえ行けば良いちゃ。より力をもっともっと頂いて行く以外にないのだ。
この位信心して、この位有難くならせて頂いたのに神様はまだおかげを下さらん。そのおかげをまだと思うところにね、どうもおかしな感じになって来る。それが段々いわば、成就していきつつあるのか、私の上に表れてくるおかげじゃなかろうかと思うのです。本当に大坪さん、こういう難儀の中に本当にそげん有難かとですかと。いわれる位に有難かったと言う事は心にもう光を受けておったんでっすと思います。
それかというて決して自分の思う様にはなっていないです。それから後の事なのです。ですから、神様におかげなんか当てにしとらん。ただ有難もうならせて頂くことだけが楽しみなんだ。信心が只身に付いていくことだけが、有難いことだ。そういうおかげを受けて行く。ちいと参ったら、もうちいぃっと一週間参ったらもうおかげを頂きたい。今度の夏の修行で一ヶ月もまいったら、いっちょこげなおかげを頂く為にと言った様なね、いうならば目先の小さいけちな信心じゃいけんのです。
そうして辛抱させて頂いて初めて米になる。そうでしょうが。光を受けた力を受けたと自分が思う。昔なら腹立てんならん事が腹が立たん。昔なら大変な悲しみじゃろうけれども、おかげと受け取る証拠に悲しみどころかかえって神様にお礼を申し上げるというのである。昨日、鳥栖の上野さんの長男の勝之さんがお父さんの病気の為にこれはもうどげん考えても神様のおかげぞと。
これはもう上野一家の者がもう今迄の様な親先生の仰る、あんた家にゃそうにゃ、おかげだけは受けとるばってんが、いっちょん合楽流にならんといわれるが本当に考えて見るとそうだから、いっちょ本気で合楽流にならして頂ける修行を神様がさせて下さるとばい。これはお父さんの病気にお礼を申し上げんならんと云うて一家中集まって話しましたと云うて昨日参って来てそういうお届をしとる。
まあ聞くなら、ほんに身が震うごとある感じがするとですもん。実際のお父さんの病気の話を聞いたら。けれどもね、そこにそういう受け方が出来たと。家族中でそれを話した。昨日兄弟で参って来てからそれをいうのです。ですからどうでも、お願いさせて頂いてから、現在北九州の方におろますから、久留米地区のこちら鳥栖支店の方へ、転勤を願わせて貰うた。
僕が先頭に立って、上野一家の信心のいわば、やり直しをさせて頂こうと思う。お父さんの今度の病気を通して、して見るとこれはお父さんに、お礼ば申し上げんならんというてから、申しよりますという。そういう頂き方が出来る。そりゃもうどうするかというのじゃない。どうでも北九州からという訳には行かんから、近くにお引き寄せを頂かせて貰うて、一つ本気で一家を挙げて、信心させて頂こうと言う様なです、これは確かに光を頂いとる証拠です。
だからそういう意味のおかげ頂いとるけん、もう手の平返しにこれがおかげが頂けるかちゅうとそう言う訳じゃなか。それから本当にやはり辛抱が必要なんであるね。光、それに辛抱がいる。辛抱が出来たからというてそれは米ばっかり。さあこんと米を頂いてからが、お恵の水も要りゃ、または信心にかけられるところの、いうなら熱情も要る訳です。火が要る、そうして初めてままになるというおかげが頂かれる。ですからね、一ヶ月も一生懸命信心したからこうと云うた様なね。
そういう例えば、おかげが目の前にぶら下がっている様なものをですね思う様な信心から、本気で一つ屑の子の自覚、あなたのおかげを頂かねば立ち行かんのだという自覚を、銘々が作らせて貰い、持たせて貰う。そして日常生活の信心修行の上にです、天地日月の心がです行の上に表されて行くところのおかげ。成程そこにはです、はぁあこれが力だろうな、光だろうなという体験が必ず自分の心の中に頂けて来るもの。
ままにならなかった。心もそれこそ、ころころと自分の有難い方へ有難い方へと使うて行けれる心も、いわゆる、心が健全になってくると同時に肉体が健全になって来る。神様のいわば切々たる願い、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと、 だからその信心とは先ずその根本になるところの屑の子の自覚。成程障子一重が侭ならぬ人の身であると云う自覚。自分の無力さ加減の自覚。
心の不具者の自覚に立たせて頂いて、あなたのおかげを受けなければ立ち行かんのだという一心、そこから生まれて来る一心。こういう心の状態になって来るものを神様がね、おかげ下さらん筈は絶対にないでしょうがね。あなたのおかげを頂かねば立ち行かんのですからと、もう全身全霊をお任せしてすがろうというのだから、そういう姿勢をもって、なら天地日月の心になることにも精進させて貰う。
そして力を受けて行く、光を受けて行く。受けたからというて又それからの辛抱が必要だ。尚更熱情がかけられなければならない。今日私が今日皆さんに御理解を聞いて頂く為に確かに昨日の月次祭に御理解をもう一遍頂きたい、同時にその内容の様に思うたから、思い出そうとしたけど思い出せなかった。だから思い出すことすらが、神様がこう一寸手を入れてござればもう、思い出す事は出来ないのだ。
だからそれを無理に思い出そうとすることはいらん。コックの方をしっかりひねっておけば、信心の方の心をしっかりひねっておけば、神様は必要な時には必要に応じて神様がおかげを下さる。そういうおかげを雛型ながら頂いとるのが現在の私である。私を中心とするおかげじゃなかろうかとこう思う。昨日も月次祭が終ってからでした。茂さん、正義さん、秋永先生一緒におるところで、昨日ここの若先生の方家がもう出来あがった、それで何と云うのですか、あれは竣工検査、竣工検査があった。
それで立派に出来上がっとりますから、お金を出来れば今月中に払って仕舞って頂きたいと言う事であった。ところが、思いがけない沢山になっている訳です。それで有ることはあるのちゅうちから、そしたら昨日茂さんが調べて、ちょうど先月どんなに僕の計算でしても金がこの位まだ足りませんというのです、それが今度は三百万ですか、二百五十万、どうでも向こうが払うてくれというとるそうです。
ところが親先生、お取次を頂いた通りに丁度銀行を調べたところが丁度二百五十万あったと、それはどげん考えても茂さんの考えではですね、計算がそげにゃならんとです。大体は委員長である正義さん、信徒会長である秋永先生がですもう本人に三人でですね、本当に神様の御都合ちゃ恐れ入って仕舞う。度々の事ながらと言う様なことでした、そげな事云わずに来月まで待ってくれんのと言う事いらん。それこそもう今日にでも払わせて頂く様なおかげが頂けておると言う事。
これなんかはね、どうでしょうか。私が光を頂きそれに辛抱して、それに熱をかけて、お恵の水はコックをひねりさえすればお恵の水は入って来る。必要なものが必要に応じてそこにです、頂けておるという事実は、これは私を中心とするところのおかげなのです。だから誰しもそういうおかげは受けられるところまでに、力を入れてからこれしこ何年間か参ったけん、こうおかげでなくてそこはもうおかげの世界は神様の世界、神様が下さるもの、限りなく下さることの出来る様なおかげを頂ける為に。
もうそこんところが一辛抱そこんところが要るのじゃないでしょうか。もう一つそこに熱をかけねばならんのじゃないでしょうか。これは皆さんの場合、全部の方の場合それが云える様に思うんです。たいげい熱をかけるごとあるばってん、まだ熱が足らん。ゴチゴチ御飯じゃいかん。お恵の水も要る。そこんところの私はですね、まだ不足しとるところ、足らないところを分からせて頂いて、一段と信心を進めさせて頂いて、そして神様がどうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰せられる程しのおかげを受けて行かねばならんと思います。
どうぞ。